芸術家がおしなべて絵画を場所ととらえているわけではない。芸術家の多くにとって、おそらくは大多数にとってといえるかと思うが、絵画は個別の対象や、幻想を垣間見る窓といったものから、時代遅れの事物や、実行中の行為の表現といったものに至るまでのあらゆるものであり得る。しかしながら、画家のなかには絵画を建築学的な用語でとらえる者もおり、長期に及ぶ美術史の時間の流れを下ったどこかの時点で将来の鑑賞者がどのような姿勢でその作品に臨むかを想像し、いつの日か絵画が展示されることになる空間がどのようなものかに思いを巡らし、絵画そのものがどのように瞑想、対立、ロマンス、救済の場を呼び起こす、もしくは自ら創出しさえするかを検討している。これは宗教的な感性に依拠しており、いくつかの重要な点でより古典的な絵画へのアプローチといえる。例えば、中世の祭壇画を描いた画家はだれでも、その絵画がこの世に存在するかぎりどこにあるかを正確に知っていた。その場所から取り外されるのは、大災害と同じような事態だった。近代思潮を通じて芸術家は作品の展示場所の決定権を依頼者側から奪い取り、絵画は教会から美術館へと移動し精神的なものから解放されたが、代わりに流通システムに組み入れられることになった。美術館はそのすべてが墓の盗掘者のような存在だ。20世紀に貴重な作品を収蔵する施設を建てた芸術家は、賞賛と嘲笑の両義的な反応にさらされ、傲慢やうぬぼれという非難を受けてきたが、これは間違いなく、先に述べたいっさいの変化にもかかわらずけっして絵画から完全に取り除かれることなく存在し続ける宗教的なオーラに由来している。特定の空間に絵画を制作する芸術家は見えざる流通の手を拒絶しているように見られており、特定の絵画のための空間を創出する芸術家は自らの手で聖堂を建築している。実際に礼拝の場として機能している『ロスコ・チャペル』、無神論者の聖堂と奇異な説明をされることの多いエルズワース・ケリーの『オースティン』、壁に向かって空中に吊り下げられたクロード・モネの『睡蓮』、マーク・ブラッドフォードの『ピケットの突撃』と、『ゲティスバーグ・サイクロラマ』に見るその直接的な先行者。これらはすべて、月面やミシシッピ川の西に広がる荒地に突き刺されたきわめて多くの旗竿と同じく、フロンティアへの権利を主張する壮大で勇ましい行為だ。
佐渡島に移住したシャルル・ムンカの歩みはもっと穏やかなものだ。いにしえの能舞台の現場に取り組む彼の絵画は、タイトルで示唆しているように、ある場所から生み出されたものとしての場所を創り出すものだ。『離見の見』というそのタイトルは、分離した視点からの見、離れた位置から理解し、様式美と、現実、過去、想像というその指示対象とをすべて同時に把握することを意味する。ムンカは羽黒神社の舞台の外側に、能の伝統にもとづく抽象的な振付けマニュアルから図像的な形態を引き出した余白中心の5点の絵画である、5枚の黒いパネルを建てた。『Adrift』(漂流)では同じパターンが地勢的に繰り返され、取り去られたブイが墓標のように積み上げられている。自然の力によって、あるいは偶然に、あるいは邪悪な行為によって、カキの養殖に用いる碁盤状の設備から外れ、波に流されて浜辺に打ち寄せられた光景だ。これらは航海用の航路標識、図形を彫刻に作り直したもの、街路標識、あるいは情報提供の落書きで、フランスの田園地帯から人口の密集した香港の中心部までムンカが繰り返し壁、街路、道路地図から取り上げてきたものだ。ムンカをこの地に連れてくることになった複雑な航跡を想像できる。神社の内部にみたびムンカの演出が見られる。ただし、今度は逆さまだ。まさにこの空間をかつて横切っていた道路の混雑を表す、明るいキャンバスに描かれたきびきびした黒のラインで、部屋からすべての空気とあらゆる歴史を吸収してほとんど自重で崩れ落ちそうな感じがする。初めから終わりまで、あらゆるしるしが意図的なものとわかる。これらの絵画のための場所を創出し、あるいはこれらの絵画から場所を創出するにあたって、ムンカは前方へと伸びる道筋を描き出すのではなく、見る者を後ろに引っ張り、転回させ、スタート地点までまっすぐ戻させるような描き方をしている。私たちは鑑賞者として明確な目的もなく祭壇に立っている。後方に引き下がって眼前のものから離れていき、自分自身の分離を確認し、世界が自分を波状に襲ってくるのをなすがままにして、望んでいるものを観賞できているのだとただ思い起こすだけだ。